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2006年3月26日 (日)

「もうひとつの楽園」金沢21世紀美術館

 今回は、3月5日まで、金沢21世紀美術館で開催されていた「もうひとつの楽園-Alternative Paradise」展です。

 この展覧会は、現代美術と工芸の狭間を意識して、企画された展覧会だと聞いて出かけてきました。なるほど、会場には、現代美術とおぼしき作品が、1つ1つの部屋ゆったりと構成されていました。しかしそれは、片方では、「陶芸」「刺繍」といわれるいわゆる「工芸」の分野に属するような作品も含まれていました。そして全体に、制作した人間の手技が見える作品が、展示されていたように思いました。一口に言って、この展覧会は個人的には、気に入った展覧会かなと思いました。私が、主にギャラリーで展示している作品たちと相通じるものを感じました。とういのは、いつも「工芸」って?「じゃアート」って何?と思うからです。あまりにもジャンル分けされすぎているところがあるのではないかと常に思うからです。今回の金沢の展覧会は、そういう私の日頃の疑問の一部分を取り上げたような展覧会のように思いました。

 やはり私は、人間のわざが入ったアートが好きなんだと改めて感じました。つまり、概念的に美術を考えるのではなく、人間である作家が、素材や技とかと対話しながら生み出すものに、興味があるのです。それが「工芸」っていわれても「美術」っていわれてもどちらでもいいんじゃないかと思っています。

 今回の展覧会は、企画したキューレーターの目がかなり、はっきりしていて、ちょっとドロドロした作品(適切な言い方ではないとは思いますが)が選ばれていたように思います。刺繍のテクニックを使ったイタリアの作家、アンジェロ フィロメーノであったり、人間の髪の毛を糸にして刺繍をしているアメリカのアン ウィルソンであったり、出産シーンの写真を大きく引き延ばして展示した、マギー カルデルスであったり。これはこれで、そのキューレーターの好みがわかるようで面白かったです。展覧会のパンフレットによると、『・・・素材を生かし他者を生かしていくという生成の過程に注がれた眼差しのやさしさ』の作品群が選ばれているそうです。私は、それに加え、人間の手技の跡を見せる作品であると思いました。

 展示作品の中では、ただ白い壁を発表した嵯峨 篤の作品が気になりました。ただの白い部屋としか見えない展示室、部屋の中には何も展示してありません。入り口で監視の人から、白い手袋をはめるようにそして、その手袋をはめた手で、入り口の両側面の壁をさわるようにと言われ、その後、その感触を覚えていて、入り口の向かいの正面の壁をさわるように言われます。最初に触った壁は、でこぼこ感があったのに、正面の壁はつるつるしています。しかし見た目は全くかわらない、でもよくみると、側面の壁には自分の姿は全く映らないのに、正面の壁には、近づくとうっすら自分の姿が映っているのです。しかし、顔の部分は輪郭だけで、自分がどんな顔をしているかは、見えないのです。
とても不思議な空間でした。そして、その正面の壁は、作家が、ひたすら磨いてつるつるにした痕跡だとの説明をうけました。これも、人間のした行為の1つです。なんだか考えさせられる体験でした。
概念的であるような、感覚的であるような不思議な作品だと思いました。

 ほかにも、いろいろ興味のある作品はあったのですが、「T-room」といわれた部屋に入ったとたん、この展覧会のコンセプトが見えなくなってしまいました。建築家の隈研吾を中心としたプロジェクトで、展示室の中には、茶室を意識したオブジェが設置してありました。その茶室は、人工皮膚の材料であるシリコンで制作されており、空気でふくらまされていました。その中にも人は入れますが、ぶよぶよした質感と、中にはめ込まれたピンクやブルーの照明が、ときどき町のネオンのように点滅するのは、どうして、これが「わび」や「さび」を考えたり、和む事を考えたりする空間になりえるのか、わからなくなりました。今の機械仕掛けの世の中に住んでいる人が、考える和みの空間なのでしょうか?これも人間わざなのでしょうけれど。
 また、まわりに、展示されている地元工芸作家の作品の展示の仕方も、もう少し空間構成というものを感じさせる展示にならなかったのか、疑問を持ちました。デパートの美術工芸品展示場的な、展示のやり方しかなかったのでしょうか?

 工芸と美術の狭間を考えながら、人間のわざや、装飾性、感覚的なものなどに思いをはせる、私には、意義深い展覧会でした。(文中敬称略)

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