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2013年12月 3日 (火)

ご無沙汰いたしております。

ギャラリーギャラリーのHPの更新が長らくお休みになっています。
今は、カレンダーのみがアップされている状態です。皆様にはご不便、ご迷惑をおかけしておりますが、作家や展覧会のアップを来年からは、充実させていこうと思っています。ギャラリーギャラリーは、今も展覧会開催中です。スケジュールは、カレンダーでご確認いただければ幸いです。
コンピューターに弱い川嶋でなかなかアップ出来ず申し訳ありません、、
展覧会情報など来年からは楽しみにしていて下さいません
ちなみに、今は村山順子個展を14日まで開催しております。
展覧会写真を貼付とおもいましたが、うまくいかず、、またご報告させて頂きます。

2012年2月15日 (水)

Susan MOWATTO展 weaving home

またまたご無沙汰してしまいました。
2012年の今年こそは!展覧会報告やらいろいろな情報発信を!と年始に誓ったはず?でしたが、そうそうに挫折、、今年最初の藤野靖子個展の報告ができませんでした。
それに続く今年第2回目となるスーザン モワットの展覧会、凛とした空気が流れています。

この展覧会は、スコットランド在住の作家スーザン モワットによる織りのインスタレーションです。

ギャラリーの空間に構成されたライン(線)は、2本のテグスを縦糸にして彼女自身で織られたものです。織っては、ほぐしていくという過程で出来たものです。

線を行き来する事は、まるでHoming (家に帰る途中)を意味し、その途中で様々な事に出会うという事を示唆した展覧会となっています。

映像は、彼女がみつけた景色の中でラインが見られる風景が流れています。

 

別室では、彼女の織物と彼女の親友である東京在住の詩人 Paul Hullar氏のHomingをテーマにした詩の朗読が流れています。(日本語訳も同時に流れます)

ぜひゆっくりとスーザン モワットの世界を体験して頂ければと思います。

といっても明日はお休み、17日と18日で展覧会は終了いたしますが、、

 

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2011年9月11日 (日)

The k&k A Kyoto Contemporary Craft Selection

ご無沙汰いたしております。
随分長い間ギャラリートークから離れてしまっていました。
わすれらているでしょうねぇ、
これからは、気楽に気取らずをモットーに発信して行きたいと思っていますので、よろしくお願いいたします。

ただいま、ギャラリーでは、The k&k A Kyoto Contemporary Craft Selection展を開催中です。
これは、織り作家の吉田桂子と私、川嶋啓子がセレクションした20名の作家による身につける楽しいアートです。
楽しい展示空間になりました。
ぜひお越し下さい!
ちいさなアートを身につけるだけで、ちょっと気分がかわり何だか、気分が楽しくなる予感がします。
17日(土)まで、木曜はお休みです。
なぜだか、画像が一緒にながせません??なんで???
これで実は、前も挫折したのですが、、、

2009年5月 5日 (火)

ご無沙汰いたしております。

最後のブログを投稿して、なんと!はや3年の月日が流れていました・・。
ご報告したいことは多々あれど、自分の文章の構成力のなさに落ち込み、また日常の忙しさに紛れ、すっかりご無沙汰してしまいました。
また、ギャラリーギャラリーでは、プロバイダーを変更するために、HPの中の展覧会報告をお休みさせて頂いています。関係作家の方々には、ご迷惑をおかけして申し訳ありません。
新しいプロバイダーも決定し、新規一新、もっと気楽で楽しいHPを目指して、デザイナーと打ち合わせ中です。
どうぞ、こうご期待下さい!
ご報告とお知らせにて
2009.05.05

2006年6月30日 (金)

渡部睦子「丘になった島ーサバイバル・ネットをいっしょに編もう」

 6月17日・18日山口県に出かけてきました。目的は、秋吉台国際芸術村で開催される、渡部睦子(Chikako Watanabe)「丘になった島ムサバイバル・ネットをいっしょに編もう」の展覧会のレセプションに参加するためでした。
 渡部睦子さんは、京都市立芸術大学卒業で、当時、陶芸を専攻していましたが、大学院在学中の1993年にギャラリーギャラリーで、とても元気のいい個展を開催した作家です。物語性のある焼き物のオブジェによるインスタレーションでした。大学院終了後、オランダに渡り、当初は、ガラスを勉強していましたが、徐々に町の人たちとかかわるパフォーマンス性のあるアートへと興味が移ってきています。

 今回は、オランダのある町の漁師達に、教えてもらった漁網、“「着れて、寝れて、魚がとれる」ー衣・食・住のアミ「サバイバル・ネット」ー(注・タイトルは、展覧会パンフレットより抜粋)”を山口の人たちと制作し、秋吉台国際芸術村で展示するという試みでした。
 山口に約2週間程滞在し、町の人々と町の話題やおしゃべりを楽しみながら、サバイバル・ネットを一緒に編んでハンモックを作り、それらが展覧会会場に並んでいました。また漁村では船に乗せてもらい、自ら編んだ網で魚をとらせてもらったと、楽しそうに渡部さんは報告していました。
 展覧会会場には、漁村でよくみられる、網を干すためにつくられた、竹とロープによる網小屋なるインスタレーションが地元の子供たちの絵とともに構成されていました。

 レセプションは、編みのワークショップに参加した若い女性たちや、子供たちとその家族でにぎわい、ほのぼのとした雰囲気で開催されました。
同時に、渡部さんと時々一緒に旅をして、訪れた先々の地元の民謡を習って歌う、歌旅行家、川辺ゆかさんの音楽ユニット「Emer-エメル」の歌と演奏(テルミンとアイリッシュブズーキ)もありました。山口の山深い夜は、自然の気をあびながら、ゆっくりとほのぼのと更けていきました。

 翌日は、山口市内にある、山口情報芸術センターに行きました。そこでは、「エキソニモ」というアーティストユニットの展覧会が開催されていました。この展覧会は、一口でいうとコンピューターを駆使した最新アートとでも言うのでしょうか?バーチャルイメージや、コンピューターや工具による立体造形(時々、それが電気仕掛けで動いたり)、またお絵書きソフトをつかった作品なども展示されていました。(お絵書きソフトをつかった作品は、結構楽しめましたが・・)
 前日の午後から翌朝まで、自然の中にどっぷり浸っていた私(宿泊棟のある場所は、携帯電話は圏外でした)にとって、なんだか現実に引きもどされたような、あるいはまた近未来的な世界に入り込んだような気分になりました。
これも、アート、前日、渡部さんが展示したのもアート・・今の芸術って何なのだろうという思いが私の中で、ぐるぐる廻っていました。

 両方とも人間の手によって生み出されたもの。一方は機械仕掛け、他方は人間の営みによって自然にうまれた技術から制作されたもの。最近は、メディアアートや、コンピューターを使ったアートが多く、それがいかにも最新の斬新な面白いアートと言われていますが、私が、関心をもつのは、どちらかというと渡部さんが発信しているような人間の手から、または生活から直接生み出されるものたちとアートとの関係です。
 どちらが良くて、どちらが良くないという問題ではなくて、現代のアートの中で、渡部さんのような発信はとても大事なのではないかと思います。
結論は出ないけれども、様々な事を考えながら、山口を後にしたのでした。

2006年6月 1日 (木)

ばんばまさえ展

 京都では、5月16日(火)から28日(日)まで、15軒の現代美術画廊が、集まり、KYOTO ART MAP週間というイベントを企画しました。独自の地図を片手に各ギャラリーを廻り、ギャラリー、いち押しの展覧会を見てもらおうというものでした。ギャラリーギャラリーでは、過去、数回の個展を開催しているばんばまさえ個展を開催しました。彼女は、一貫して、染織の技術による現代的な造形の発表を続けています。

 今回、大阪電気通信大学教授で、フリーで、アートコーディネートの仕事や、執筆にかかわっていらっしゃる原久子さんが、5月24日付けの日本経済新聞関西版 夕刊文化22面に、とても素敵な文章を書いて下さったので、ご紹介したいと思います。
「(前略)  ばんばまさえ個展が、この企画の一環として、ギャラリーギャラリー(京都市中京区実際は、下京区の間違いー)で開催中だ。
 大学で染織を学んだばんば。絞り染めの技法を用いた布で、オブジェをつくり、会場の空間全体を構成する現代的な展示を行ってきた。
 床に無数に並ぶ透明の布の小さなオブジェの間に、昆虫の羽を模した布が、所々に落ちている。布を微妙に異なる何種類かの緑色に染め、キノコのかさのような形に膨らませた展示は、植生している胞子にも見える。羽の形状をした布は、絞り染めをほどこしプレスしたもの。
 淡い色が壊れやすそうな繊細さを醸し出すが、どこでも繁殖できる強さを併せもつといった印象も同時に与える。羽が土に返り、胞子を育てる。肥えた土となるような生態系の循環を想像させるからかもしれない。
 大きな窓から入る自然光や照明の効果は、現代的なクールさを演出する。時間帯によって作品の表情が変化する。だが、伝統的な手仕事の技術でつくり上げられた空間でもある。
 都会の一角にひそかに種を守るために生物たちが生息しているオアシス、とかった小宇宙的な見立てとも取れる。足を踏み入れると、心身共に浄化させてくれる清らかな空気が漂う。頭で考えさせるよりも、先に感覚に訴えかけてくる空間を支配する緊張感も心地よい。
 文明の恩恵を受け、都市生活を送るなかで、ともすると忘れがちとなっている自然の摂理を、再確認できる場とも言えよう。28日まで。」  
 この文章を読まれて、実際にギャラリーに初めて訪れてくれる方々が、多くいらっしゃいました。そしてその人たちの口々から、「本当にオアシスみたいですね」という言葉を頂き、ゆっくりとこの展示を見ておられました。
 

 この文章は、私にとって、数々のキーワードを含んでいます。
たとえは、ギャラリーが、見に来る人たちにとって、都会の中のオアシスとなりえる展覧会を開催する事。伝統的な手仕事による作品が、現代的な空間を表現すること。頭で考えるより、感覚に訴える空間の緊張感、などなど。テキスタイルでの表現が多いこのギャラリーにとって、考えさせられる文章でした。
 

 そして、時間や人の流れがとても速い都会の喧騒の中で、ゆっくりとした時間の流れを感じさせる空間、人々を、ほっとさせるような空間となりえる都会のオアシスとしてのギャラリー。
 常に新しい現代美術の発信を、と思いながら、ともすれば突っ走ってしまいがちな私にとって、作品を人々に見てもらうという事は、何なのだろうという事を、考えさせられるとても素敵な文章に出会えたと思っています。

2006年4月24日 (月)

北イタリアの小さな町での展覧会

 4月1日は、北イタリアの田舎町、Maniago(マニアーゴ)というところにいました。この町で開催される、「VALCELLINA AWARD ーInternational Textile/Fiber Art Competition 5th Edition」という、テキスタイルの展覧会のオープニングに参加するためです。
この展覧会は、この町の周辺に住む地元の関係者が、35歳以下の若手作家を対象にした国際的な現代テキスタイルの公募展を開催し、過去に4回開催され、今回は5回目でした。私自身は、この公募展があるのは、昨年まで知りませんでしたが、昨年主催者の一人とベルギーで会い、この公募展がある事を知りました。

 今回は、私のギャラリーで個展を開催した作家の一人である、吉本直子さんがグランプリを受賞されたという事もあり、出かけてきました。Maniagoという町は、オーストリアとスロベニアの国境に近い、アルプスのふもとにある小さな町です。昔はテキスタイルの町として栄えたそうですが、今は刃物の生産で有名だそうです。展覧会は、若手作家を支援する町をあげてのイベントのようで、町の文化会館のようなところが会場になっていました。オープニングには、町の人たちも多く招かれて参加していました。今回は、このオープニングで見かけた光景に考えさせられるものがありました。日本の美術館や、町の文化施設で開催される美術展のオープニングは、参加者のほとんどが、作家、ジャーナリストなどの関係者に限られています。お年をめした方や、小さい子供をつれた親子などが、レセプションに参加するのは、まれなことではないでしょうか?今回のManiagoのレセプションには、お年寄りから、親子連れ、そして、町の関係者や美術評論家、大学で教鞭をとっている人たちと様々な人が参加していました。様々なタイプの作品を目の前にして、お互いに感想を述べ合ったり、私が日本のグランプリを取った作家と関係があるという事がわかると、口々に「おめでとう」と声をかけてくれたり、「この作品は、好きです」と感想を言ってくれたり、本当に、町をあげてのとても印象の良い、レセプションでした。小さな町だから出来る事なのかもしれませんが、日本では、美術の世界とそこに住んでいる町の人たちの世界が、あまりにかけ離れているのではないかと思いました。美術の関係者だけで盛り上がっている事が、特に現代美術と呼ばれる世界に見られるのではないかと、思います。これは、ギャラリーを運営している私自身への自問でもあります。どうしたら、一般の人たちと美術を通じて、何かを感じてもらい、通じる事ができる。高いといわれる敷居を取り去るにはどうしたらいいかなど、考えなければならない問題だと思っています。

 Maniagoの後に参加した、ミラノでの国際家具の見本市「ミラノサローネ」の会場でも、家具の企業関係者やジャーナリストにまじって、イタリアの家族連れや、若いカップルなど、一般の人たちも多く見かけられました。もちろん、高価な家具を買うわけでもないのですが、自分たちの生活を楽しむためのヒントを探しに来ているのです。そういうヨーロッパの人たちの姿を見て、今回の旅は人々の生活とデザイン、美術との関係を考えさせられたのでした。

2006年3月26日 (日)

「もうひとつの楽園」金沢21世紀美術館

 今回は、3月5日まで、金沢21世紀美術館で開催されていた「もうひとつの楽園-Alternative Paradise」展です。

 この展覧会は、現代美術と工芸の狭間を意識して、企画された展覧会だと聞いて出かけてきました。なるほど、会場には、現代美術とおぼしき作品が、1つ1つの部屋ゆったりと構成されていました。しかしそれは、片方では、「陶芸」「刺繍」といわれるいわゆる「工芸」の分野に属するような作品も含まれていました。そして全体に、制作した人間の手技が見える作品が、展示されていたように思いました。一口に言って、この展覧会は個人的には、気に入った展覧会かなと思いました。私が、主にギャラリーで展示している作品たちと相通じるものを感じました。とういのは、いつも「工芸」って?「じゃアート」って何?と思うからです。あまりにもジャンル分けされすぎているところがあるのではないかと常に思うからです。今回の金沢の展覧会は、そういう私の日頃の疑問の一部分を取り上げたような展覧会のように思いました。

 やはり私は、人間のわざが入ったアートが好きなんだと改めて感じました。つまり、概念的に美術を考えるのではなく、人間である作家が、素材や技とかと対話しながら生み出すものに、興味があるのです。それが「工芸」っていわれても「美術」っていわれてもどちらでもいいんじゃないかと思っています。

 今回の展覧会は、企画したキューレーターの目がかなり、はっきりしていて、ちょっとドロドロした作品(適切な言い方ではないとは思いますが)が選ばれていたように思います。刺繍のテクニックを使ったイタリアの作家、アンジェロ フィロメーノであったり、人間の髪の毛を糸にして刺繍をしているアメリカのアン ウィルソンであったり、出産シーンの写真を大きく引き延ばして展示した、マギー カルデルスであったり。これはこれで、そのキューレーターの好みがわかるようで面白かったです。展覧会のパンフレットによると、『・・・素材を生かし他者を生かしていくという生成の過程に注がれた眼差しのやさしさ』の作品群が選ばれているそうです。私は、それに加え、人間の手技の跡を見せる作品であると思いました。

 展示作品の中では、ただ白い壁を発表した嵯峨 篤の作品が気になりました。ただの白い部屋としか見えない展示室、部屋の中には何も展示してありません。入り口で監視の人から、白い手袋をはめるようにそして、その手袋をはめた手で、入り口の両側面の壁をさわるようにと言われ、その後、その感触を覚えていて、入り口の向かいの正面の壁をさわるように言われます。最初に触った壁は、でこぼこ感があったのに、正面の壁はつるつるしています。しかし見た目は全くかわらない、でもよくみると、側面の壁には自分の姿は全く映らないのに、正面の壁には、近づくとうっすら自分の姿が映っているのです。しかし、顔の部分は輪郭だけで、自分がどんな顔をしているかは、見えないのです。
とても不思議な空間でした。そして、その正面の壁は、作家が、ひたすら磨いてつるつるにした痕跡だとの説明をうけました。これも、人間のした行為の1つです。なんだか考えさせられる体験でした。
概念的であるような、感覚的であるような不思議な作品だと思いました。

 ほかにも、いろいろ興味のある作品はあったのですが、「T-room」といわれた部屋に入ったとたん、この展覧会のコンセプトが見えなくなってしまいました。建築家の隈研吾を中心としたプロジェクトで、展示室の中には、茶室を意識したオブジェが設置してありました。その茶室は、人工皮膚の材料であるシリコンで制作されており、空気でふくらまされていました。その中にも人は入れますが、ぶよぶよした質感と、中にはめ込まれたピンクやブルーの照明が、ときどき町のネオンのように点滅するのは、どうして、これが「わび」や「さび」を考えたり、和む事を考えたりする空間になりえるのか、わからなくなりました。今の機械仕掛けの世の中に住んでいる人が、考える和みの空間なのでしょうか?これも人間わざなのでしょうけれど。
 また、まわりに、展示されている地元工芸作家の作品の展示の仕方も、もう少し空間構成というものを感じさせる展示にならなかったのか、疑問を持ちました。デパートの美術工芸品展示場的な、展示のやり方しかなかったのでしょうか?

 工芸と美術の狭間を考えながら、人間のわざや、装飾性、感覚的なものなどに思いをはせる、私には、意義深い展覧会でした。(文中敬称略)

2006年3月 6日 (月)

卒業制作展巡り

 京都市美術館では、2月に入ってから、京都市内・周辺にある美術系大学の卒業制作展が、週代わりで開催されています。私の毎週日曜の京都市美術館がよいが始まっています。これまでに、京都精華大学、京都嵯峨美術芸術大学、京都市立芸術大学、大阪成蹊大学・芸術学部、京都造形芸術大学を見ました。あとは、川島テキスタイルスクールを残すくらいとなりました。

 はっきりいって、多くの大学の卒展を見て、先行きに不安を感じてしまいました・・・今までは、1つくらい1大学には、私のまったく主観的な感性ですが、ジャンルには関係なく、ビビっとくるものがあったのですが、本当に今年は、ほとんどありませんでした・・・いったいどうなってるの??という悲壮感しかわいてきません。
 私は、何もえらそうなことはいえませんが、なんだか今の学生の作品には(一口で言ってしまうと)美的センスがないのではないかと思ってしまうものが多かったように思います。技術的な完成度以前の美的センスということでしょうか?色彩感覚も含めてですが。

 私の興味は、平面作品より立体作品やインスタレーションなのですが、平面作品を含めて、全てにおいて、美的センスは言うまでもなく必要でしょう。センスがなくても、技術がしっかりしていたら、まだ見られるでしょうけれど、その技術さえもしっかり勉強していないという感じでした。それに、技術は時間をかければ、それなりに習得していけるものでしょうけれど。
 なんだか、目の前の興味のある事柄だけをピックアップして、教わった先生方の影響をまともに受け、それ以上テクニック的な追求もせず、自分が習得した技術だけの作品。

 どうしてこんなことになってきたのでしょうか?もう少し丁寧に、ものをよく観察し、考えて制作する時間を持つことは、このせわしない世の中には無理なことなのでしょうか?

「みなさん、もっと自分なりの美的センスを日夜磨く努力をましょうよ」と言いたいです。美的センスは、もって生まれたものもあるでしょうけれど、日夜の努力で磨かれていくものと信じます。
 それは、本を読んだり、おいしいものを食べに行った時のお料理のコーディネートだったたり、時には、雑誌に目を通したり、そして何より勉強、いつもアンテナを張って他の質の良い美術作品(新しいものだけでなく、古いものや国内外のもの)を見て歩くことだと思います。質の良い美術作品がどうかを自分自身で発見していくためにも、町に出て、美術館や画廊巡りをしてほしいものだとつくづく思います。

 最近は、本当に、熱心にギャラリー巡りをしている学生が、少なくなっています。皆さん、いろいろ忙しいのでしょうか?それとも、あのような作品でも、誰かが拾ってくれるのを「たなぼた」式に待っているのでしょうか?

 なんだか、前途多難な日本の美術を思っているのは私だけでしょうか?それとも、美術系大学生に期待をよせている私の視野が狭いのでしょうか?

2006年2月10日 (金)

<「砂の女」と現代の美術>展

 今回は、作家の作品うんぬんというより、展覧会タイトルと展覧会内容の関係の素直な疑問です。

  京都芸術センターで、「砂の女」と現代の美術展が開催されています。この展覧会は、若手の企画者、古川誠氏がたてたコンセプトにしたがって、この古川氏が、若手作家を選んだ展覧会です。

 でも、見た私は、「わかんない???」何故これが、「砂の女」と関係があるの??と展覧会を一通り見て疑問に思いました。会場入り口におかれている展覧会リーフレットによると、「安部公房の「砂の女」をテーマとした作品で本展を構成しようとする意図ではありません(中略)・・・揺れ幅の広い若手美術家の創作活動や予想不可能な展開の面白さに置き換え、「砂の女」の物語になぞらえた展覧会として紹介できるのではないかと考えた・・・」とありました。そうか、もんもんとしている現代美術作家たちを、もがいてもがいても砂地獄からのがれない状況と、照らし合わせているのか・・・と一人納得したものの、それなら、現代の美術をやっている作家はみんなそうじゃない?やっぱり何故この作家達なのだろう?と思ってしまいます。

 一つ一つの出品作品のクォリティーは、決して悪くはないと思うのです。特に澤田知子氏は、昔から、作品の中に何か訴えるようなものがあり、気になっている作家の一人です。が、ひとまとめにして見ると、全作品の空間構成が、あまりにも整然と並んでいて、きれい過ぎるような・・・ただの現代美術展とどう違うのか?なぜ「砂の女」が出てくるのか・・やっぱりわかんないのです。

 一人の企画者が何かのコンセプトで選ぶのはわかるけれど、「砂の女」をキーワードにして、何故、あえてこの作家たちなのか?私としては、そのあたりの説得力が欲しいところなのですが、

 私が昔(高校時代に読んだので、すっかり詳しい内容はおぼえてないけれど)安部公房の小説「砂の女」を読んだときの、あのあまりにも強烈な印象にただ引きずられているだけなのかと自問しながら、それでも、なんだか自分の中ですっきりしないものがあるのです。(私は、その昔、安部公房の本のファンで、彼の小説はほとんど読みました。)

 本日、2月10日付の朝日新聞夕刊には、「・・・どれも、飛び跳ね、わんぱくだ。そして誰もが成功物語を夢見ている。(中略)それは、阿部公房の「前衛」とは趣の異なる輝きに見えた」とありました。さすがに、新聞の美術記者の方と思いながらも、これが、「砂の女」をとりあげた理由?
 昔の前衛は、どろどろしていて、今の若い作家の前衛は、もっと直接的で、さらさらしているという違いをいうために「砂の女」を引き合いに出したのでしょうか?「砂の女」ファンとしては、なんだか安易すぎるような・・。

 うーんやっぱり「砂の女」が出てくる理由とこの展覧会の作品群との関係が、わかんないのです。あまりにも、私にとって、展覧会のタイトルが魅力的過ぎるような・・これも展覧会のキャッチコピーとしてみたら、成功しているような・・
素直に面白い現代美術展だったといえない私なのですが。

 

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